削りようのない文章

削りようのない文章_e0201060_09483100.jpg


本を読んで気になった文章はノートに転記する。文章を絞り込み、ここぞという一文だけを選ぶ。選ぶということは、削る部分を見極めることでもある。

最近、削る部分がほぼないという文に出会った。それは、幸田露伴の随筆。幸田露伴は、明治大正に活躍した小説家であり随筆家であり道教の研究者。

この方の随筆が、短いながらいや短いゆえに一文たりとも削りようがなかった。

短くて削りようのないほど密度の高い文章でありながら、言葉は平易。ゆえに読みつっかえることはない、しかし内容は深く、再読するたびに新たな発見がある。

随筆や小論文は、言いたいことがあり、その理解を助けるために例えを用いる。ゆえに、わたしがノートに転記する際にはそういうところは省くのだが、幸田露伴の場合、その例えの的確さと言い換えの豊富さも見事。

例えの部分も見事すぎて削りようがなく、よってほぼ全文丸写しになった次第。こういう文章が書けるようになりたい。


p 16『些細なようで重大な事』幸田露伴

「人間には色々の仕草があるがつづめて言えば、

事に処すると、
物に接するとの
二ツになる、

事に処すると云ふは、
其処に生じて来た或る事情に対して、如何云ふ様に自分の態度を執るか、了見を定めるか、口を利くか、身体を動かすか、知慧を回らすか、力を用ふるかといふ事である。

事に処するは、非常に多端である。」

「物に接するは、事に処するよりも単純であるが、

それでも本当に物に接するといふことに徹底するには、大分の知慮分別と、鍛錬修行を必要とする。

物に接する事がよく出来ぬ位では、世に立ち人事百般に処するは、なほ能く出来ぬ訳であるから、

我々は先ず物に接する処から鍛錬修行を積んでいかねばならぬ。」



事は流動的、モノは静的。ゆえに、日々の生活の中でモノに対処することは、事に対処する練習になる、という主旨。

これはわたしが常に思っている「人生は選択の連続、選択の積み重ねが人生。片づけは選択の練習であり、片づけをすることによって物事に対処できるようになる」ということと同意。

ゆえに嬉しい。そして、そのことをこんなにも的確に言ってくれる文章に出会えて嬉しい。

片づけのノウハウ本をたくさん読むよりも、こういう名文を読むほうが心に響き背筋が伸びる。






by e-sakamichi | 2018-02-18 02:00 | 本 & ひとりごと | Comments(0)

Web 内覧会、家事効率化、生き物、石ころ、お茶、本。大1男子&高1双子女子の母。


by sakamichi