読めるかどうか

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今回の冬休みは、硬派な本を。まずは、夏目漱石。

漱石の文章、以前は読めませんでした。

文章の内容が理解できるか、という問題ではなくて、時代的な漢字の使い方と漢字の多さがネックで読めませんでした。また漢字が旧字体ゆえに読めない部分も。

例えば、「此變化は誰にでも必要で、また誰でも實行してゐる事だらうと思ふが、それが果して相手にぴたりと合って寸分間違のない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いてゐるだらうか。私の大いなる疑問は常に其所に蟠まってゐる。」(『硝子戸の中』p492)

読めないでしょー(苦笑)。

しかし、今回借りた全集は、全ての漢字にフリガナがあった。ゆえに読めたのでした。

(補足:全集のすべてにフリガナがあるわけではありませんでした。ないところもありました。)

物理的に読めると、理解できることが多かった。

言葉としては難しくても、内容としては理解できない範疇でなかった。

この件でわかったこと、3 点。

① 読めるかどうかには、その漢字が発音できるかも大事。

目で読みつつも、頭の中では音読をしている。よって、発音できないと理解できないんだなぁということに気がつきました。

ちなみに先ほどの文章で「蟠まってゐる」は「わだかまっている」と読みます。読めるとわかるでしょ。


②同じ漢字でも、読み方によって語感がかわる。

例えば「私」を「わたし」と読むか「わたくし」と読むかによって、受ける印象はまったくかわる。

語弊なきように、ひらがなで「わたくし」と書けばいいかというと、そこもまた違って。ひらがなの「わたくし」と漢字の「私」ではこれまた語感が異なる。

漱石の時代の文章は、やはり漢字で「私」と書いて「わたくし」と読むのが正解だと感じたのでした。


③行間の広さ

今回の全集は行間もゆったり。

文庫本だと行間が狭くて。ただでさえ漢字が多いのに、行間が狭いとそれだけで圧迫感があり読む気がしない。ゆえに行間のゆとりも大事。



という 3 点を、今回の夏目漱石の全集でうすぼんやりと思いながら、小林秀雄を読み始めました。

この方の文章も、以前に玉砕してしまったのですが、今なら読めるかもと思い、手を出してみた。

借りたのは昭和54年発行の全集。やはり旧字体でつまづいた。理解できる云々の前に、物理的に読むことが困難でした。

ゆえに、また漱石全集に戻って、頭を旧字体モードにしてから再度小林秀雄を読みました。そしたら、読めた、物理的には。内容は全てを理解できたとは言えないけど、とりあえずは読めました。


小林秀雄の文章が難しいと言われるのは、あまりに頭のいい人ゆえに、文章が凝縮されすぎているから。

ゆえに、その凝縮された文章の間にあるものを読者が自力で満たすことが求められる。

しかも、その行間を満たすのは、知識ではなく、自らの体験から得た感覚と言葉で満たしていく必要があるとも、思ったのでありました。

もう、ものすごくレベルの高い人と話しているような感じで、気が抜けない。しかし、読んでいて(話していて)楽しいことも確か。

くりかえし先生に質問をしながら、消化し、消化できなくても(そのときに理解できなくても)食らいついていきたいと思うのでした。

ちなみに、はるかに次元の高い人の本を読むときは、まずは対談集や講演集など、話し言葉で書いてあるものから読むことをおすすめします。

講演集なら耳で聞いてわかるレベルの漢字だし、言葉の省略もないから理解しやすい。

また、対談集ならば、わたしが聞きたいことを、対談の相手がタイミングよく問うてくれるので理解しやすい。



--- おまけ ---

わたしが読んでいた小林秀雄の文章を横からのぞいたパパの一言、「漢字が多い!」。
はい、そうなんですー。

逆に今の人の文章は、漢字が少ないんだろうなー。


漱石全集 第11巻 文学論

夏目漱石/Kindleアーカイブ

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読書について

小林 秀雄/中央公論新社

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これは対談が入っているから読みやすかった。これを読んで、この方の本をもっと読んでみたいと思ったのでした。

by e-sakamichi | 2018-01-08 14:03 | 本 & ひとりごと | Comments(0)

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