『石の来歴』- 4 / 美と醜という視点から
2017年 08月 13日
4. 美と醜という視点から
この物語における美は、非常に少ない。しかも常に醜との対峙がある。
これはこの物語だけでなく文学全般に言えること。醜について書くことにより、読み手の美を引き出すのが、文学の本当の目的なのかもしれない。
ここではこの物語における美と醜という視点で紐解いてみようと思う。
この物語における石は、ほんとにそこらにあるの石のことであり、キラキラした鉱物・宝石の類ではない。よって、美の定義「⑥はなやかなこと」とは一見対極にある。
しかし作者によれば、「変哲のない石ころひとつにも地球という天体の歴史が克明に記されて」おり、「つまり君が散歩の徒然に何気なく手にとる一個の石は、およそ五十億年前、後に太陽系と呼ばれるようになった場所で、虚空に浮遊するガスが凝固してこの惑星が生まれたときからはじまったドラマの一断であり、物質の運動を刹那の形態に閉じ込めた、いわば宇宙の歴史の凝集物」なのだった。
とすると、石には美の定義「⑦〔哲〕直感的な真・善などの具象化されたもの」や「④賞賛すべきこと」が当てはまるのではないだろうか。ゆえに、作者にとって(そして石好き人にとって)石は美なのである。
作者が石に込めた思い、それは、ただそこにあるだけの存在でしかない石に宇宙がつまっているというロマン、そして、それを知る人だけがその喜びを享受できるという優越感、そして変わらないものとしての象徴、なのではないだろうか。
美としての石に対する醜は、この物語では戦争である。
この物語における戦争とは、「①きらうこと。はずかしいこと。②醜いこと。見苦しいこと。③はじ、屈辱。④顔かたちの醜いこと(人)。⑤行為のにくむべきこと(人)。」であり、まさに醜そのものであった。
しかも、石に興味を持ったきっかけが戦友の一言ゆえ、美しいものであるはずの石に面しているときも、常に戦争という醜がつきまとっていた。
石と戦争は、美と醜、現在と過去でもあった。この相対する二つが、時間的隔たりを超えて交錯するあたりに、作者の筆運びの上手さを感じる。
しかし読むにつれて、戦争が美に転じている場面もあることにおどろく。
それは直情的な大尉を核とした兵隊たちの一体感と死への甘美な誘惑を描いた場面であった。そこでは死すらも美へと転じていた。戦争時における死は、真であり善であり、また賞賛すべきものであったゆえに、美の定義との一致が読み取れたのである。
地学用語で褶曲(しゅうきょく)という言葉がある。褶曲とは「地殻に働く横の圧力によって地層がしわをよせる現象」のことをいい、しわがよるだけでなくねじ曲がることさえある。
戦争という圧力の中で人は、醜すらも美に褶曲してしまった。その褶曲は、今の私たちから見れば明らかな褶曲でしかないのに、戦争時においては平坦=当たり前だった。
自然界における褶曲が避けられないものであるのと同様に、一兵卒でしかない主人公にとって、戦争という褶曲は、自らの意志では避けることができないものであった。
自らの意志で避けることができないもの、これを運命と呼ぶのであれば、その運命に押し曲げられた自分を、主人公は褶曲した地層に投影していたのかもしれない。
だとしたら、元々は美でしかなかったはずの石も、褶曲した地層も、彼にとっては、美ではなく醜となってしまった。彼の世界に健やかで健全な美はなくなってしまったのであった。
(続きます。次で終わり)