図書館 - 3 / 対人観とメタ認知
2016年 07月 29日
考察シリーズ、「図書館の活用法と効用」。
* 3
「映像と本の決定的な違いは、その感情を言葉として表しているかどうか、という点」
p 152 読む力が思春期を支える
序論として、なぜ本なのか?というお話から。
今回は、対人観とメタ認知について。
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物語を読むということは、物語の世界にぐぐっと入り込み、その登場人物の体験と感情をそっくり味わうという行為です。
登場人物になりきって、ドキドキしたり、がっかりしたり。
物語を通して、実生活では遭遇しえないような体験と感情を知ることができます(* 1 )。
しかし、物語の中の感情は、共感できるものばかりではありません。
けれど、共感できない感情であっても、人にはそれぞれの事情があって、事情があるゆえにそういう感情が起こるというということを、物語の中なら納得感を持って知ることができるのです。あぁ、そう思うのは仕方がなかったのね、という感じで。
だから、共感できない感情でも、否定はしなくなります。
つまり、物語を読むことによって、「共感できなくても否定はしない」という姿勢が養われるのです。
この「共感できなくても否定はしない」という姿勢を、実生活で人に適用するとどうなるでしょう?
まず一つ目、人に優しくできます。
優しいとは相手の気持ちに寄り添うこと、というのがわたしの定義ですが、
相手の感情に共感はできなくても、否定さえしなければ、寄り添うことはできるのです。
ゆえに、否定しない姿勢でいると、人に優しくできる割合が増えるのでした。
二つ目、人の話を最後まで聴くことができるようになります。
人の話を最後まで聴けない最大の理由が、それは違う!という否定によって人の話の腰を折ることなんです。
だから、否定しない姿勢を持つと、人の話を最後まで聴くことができるのでした。
つまり、物語を読むことによって得られた「共感できなくても否定はしない」という姿勢は、人に対する自分のあり方、という対人「観」の域にまで昇華できるのでした(* 2 )。
共感できなくても否定はしないという、この対人観は、映画やドラマなど映像として物語を見ることでも養われるのですが、映像と本の決定的な違いは、その感情を言葉として表しているかどうか、という点です(* 3 )。
本の中では、登場人物のそのときの感情を、言葉として表してくれています。
例えば、この文章。
「けんの泣き声が聞こえてくると、自分のへやにいても、わたしは気もちの底の方がぐるぐるしてきます。なんだが自分がしかられているような気がしてきます。胸がだんだん、どきどきしてきます。どうしたらいいんだろう、とそわそわします。」(* 4 )
お姉ちゃんになったからという理由で邪険にされている(と思っている)主人公が、弟の泣き声を聞いて、ぐるぐる逡巡する様が手に取るようにわかる文章です。
映像だと、戸惑っている主人公の表情ぐらいしかわからないでしょう。
そして、同じ状況でもシロウトが書くと「泣き声が聞こえてきて、嫌な気持ちになった。」程度でしょう(苦笑)。
嫌な気持ちになった、という表現しかできないゆえに、その感情を深くまで味わうこともできず、
戸惑っていることにすら自分では気がつかない。
戸惑っていることに気がつかなかったら、泣き声は不快なままで、弟を邪険にしてしまうでしょう。
戸惑っていることにすら自分では気がつかない。
戸惑っていることに気がつかなかったら、泣き声は不快なままで、弟を邪険にしてしまうでしょう。
実生活や映像ではほんとに一瞬の出来事ですが、その一瞬にはいろんな感情がぐしゃぐしゃに詰め込まれている。
そいういうぐしゃぐしゃに詰め込まれた感情があるということに、実生活や映像では気がつけません。
これは、物語を本で読むことでしか知ることができないのです。
だから、本なのです。
そして、ぐしゃぐしゃに詰め込まれた感情を紐解いていくことで、違う見方ができるようになり、結果として違う行動をとることができます。
先ほどの例でいくと、実生活では、弟を邪険にしてしまっていたでしょう。
けれども、紐解いていけば、自分はどうしたらよいかわからないから不安なんだ、じゃぁどうしたらよいか考えよう、というようになるのです。
感情を言葉として表した文章を読むと、感情の微妙な差異や変化についての感度が高まる。
そして、違う見方、違う行動をとることができるようになるのです。
また、自分の感情を言葉として表すことができるようにもなります。
自分の感情を言葉として表すことができると、今の自分の感情をより客観的に見れるようになるのです。
まるで、少し離れたところで俯瞰しているような感じです(* 5 )。
少し離れたところで俯瞰しているような感じで自分に起きていることを見る……、これを「メタ認知」といいます。
「物語を読むということは、主人公や語り手など、自分以外の人間の意識に入りこみつつ、同時にそれを一段上から観察する作業だからです。それをやっていれば、自分自身の意識についても、同様のモニタリングができるようになってくるはずです。」(* 6 )
だからね、物語も本で、なんです。
--- まとめ ---
物語を本で読むことによって、
対人観とメタ認知を養うことができる。
これは、映像では代替えができない。
--- 参考文献など ---
* 1
「一生の間に実際に体験できることといったら、実はほんのわずかしかありません。その限られた時間と場所をこえていく方法、それが本を読むことです。(中略)
『本を読む人』は読まない人よりもずっと多くの体験をし、ずっと広い世界を知っていることになるのですね。」
物語の中で主人公が困難にぶちあたって、その困難をどう乗り越えていくか、という過程が、物語を読むことにおける醍醐味だと思うのですが、
最近の子ども向けの物語は、この困難に対する解決法が安易なのが多いような気がします。
魔法や便利な発明品、脈絡もないギャグやひらめきとかで、安易に解決してしまうので、主人公がもがきながら自力で解決してく過程がない。
これでは、子どもが実生活で困難にぶち当たったときに、自力で解決していくという視点を養えません。
現実に即した解決法を提示できないし、解決できなければ外的要因のせいにする、そもそも問題は自力で解決するという発想すら浮かばない、というふうになりかねない。
ゆえに、そういう質の読書は、むしろ弊害のほうが大きいような気がするのです……。
* 2
「観」の話はコチラ → どうとでも展開できるネタ
* 3
「映像と本の決定的な違いは、その感情を言葉として表しているかどうか、という点」
好きだなと思うドラマに共通していたこと、それは感情を言葉として表していることでした。
セリフとしてではなく、内なる声として表現してくれているの。表情だけでなく、内なる声として表現してくれていると、より理解が深まったのでした。
そして、その内なる声は、必ず過去形でした。ゆえに、自分の感情を紐解くときも過去形で表すクセがつきました。過去形で表すと、もう済んでしまったこと扱いになるので、後に引きずることがなくなるの。
* 4
泣きました(笑)
* 5
メタ認知能力は、本を読むことやドラマを見ることによっても養うことはできますが、、最も高度な養い方は、文章を書くこと、だとわたしは思います。
日記ではなく、人に見てもらうという形の文章のほうがよりよいです。
人に見てもらう文章にすることを意識すると、目の前のことをより詳細により客観的に見ることができるようになります。
ネタにしようと思うと、些細なことに目をつけるようになるので、日常生活への感度も高まります。
ネタにしようと思うと、些細なことに目をつけるようになるので、日常生活への感度も高まります。
* 6
p 152 読む力が思春期を支える
「自分が直面している問題の全体像を把握し、さまざまな可能性を考慮に入れて解決策を練るだとか、行動に移る前に段取りを考え、状況に応じて計画を変更していくとか、自分とはちがう立場の物事を見直してみる、といった能力は、十歳前後で急速に発達すると言われています。
これらの能力の基礎となるのは、自分の頭の中で進行していることを、一段上から観察し制御するモニター力で、そういう力のことを『メタ認知能力』と呼びます。(中略)
メタ認知能力は自己コントロールにも大きなかかわりを持っていて、わたしたちの感情の爆発を抑えたり、衝動にかられて動こうとする自分をなだめたりできるのも、この力があってのことです。
物語を読むということは、主人公や語り手など、自分以外の人間の意識に入りこみつつ、同時にそれを一段上から観察する作業だからです。それをやっていれば、自分自身の意識についても、同様のモニタリングができるようになってくるはずです。」
--- おまけ ---
by e-sakamichi
| 2016-07-29 12:15
| 本 & ひとりごと
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